僕は誰に話しかけているんだろう。

僕は、誰に話しかけているんだろう。
僕は、誰に話しかけているんだろう。

こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。

昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。

無意識に意識を向けるなんていうと、こんがらがるかもしれないけど

実際その通りだから仕方ない。

「今、どこに意識を向けていましたか?」と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。

「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。

実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。

 

目の見ている焦点距離と、意識がある距離。


ああ、いい例えがある。


彼は、パソコンでちょっとエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。

目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後に現れるかもしれない存在に向けている。

目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。

わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。

子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、確かに抱っこをしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。

子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。



目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。

 

疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。

極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、

「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。

「何故ですか?」
と聞くと、

「今初めて気がつきました。」
と言われる。

こんなことを気にしている人は、そう多くない。



この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、
NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない。


僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)から、その人の真意を読み取ることをしている。

重心を後ろに移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。

 

目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。


というように、それぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。


目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。

AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。

過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。


2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト

(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。


人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。

それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。


こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。


これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。

どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。

ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。


うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。

そして、無意識に意識するところにある何か。

感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。

「心」と思っている物は、どこにあるのだろう。

それは、移動する物なのだろうか?

中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?


この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。

それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。

さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。

それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。


治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、
「本当は、何を伝えたいのか?」
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。


患者さん自身も気がついていない、

「最も叶えたい」と思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。


そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。



不安や、不快は成長の種だ。

 


僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。

すると、嫌な予感、危険な感覚が、実際は何なのか?がわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、

この感じは、ここから始まっている。というように。

自分の感情、感覚と、関わり続ける経験が、人を成長させると思っている。


この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。


未知の感覚に出会ったときには、
何に気がついたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。

 

いつか、僕が話しかけている存在が、笑いかけてくれるまで。

 

 

 

 

こんな事をいうと変な人に思われるかもしれないけれど、
僕が、人に話をするときに気をつけていることは、どこに向かって話をしているかを観察すること。

昨日話をした、自分と相手との間を往き来する「何かの意識を持った塊のようなもの」とは別に、会話中の人は、あちらこちらに無意識に意識を向けている。

無意識に意識を向けるなんていうとこんがらがるかもしれないけど、
実際その通りだから仕方ない、

今、どこに意識を向けていましたか?と質問しても、「ここです。」といえる人はほとんどいない。

「ここです。」と言う人がいたとして、そのほとんどは、僕の言う意味の「意識があるところ」ではなく、「視線を向けている方向」のことを言う。

実際は、目の向いている方向と、意識が向いている方向は異なっている。
方向があっていても、距離感が違う場合がある。

目の見ている焦点距離と、意識がある距離。


ああ、いい例えがある。


今僕は、パソコンを使ってエッチな動画を見ている。
そのとき、目線は動画に釘付けなのだけれども、部屋に誰か入ってこないだろうか?と部屋の外の廊下の足音や人の気配に意識を向けている。

目の前に視線は向けているのだけれど、
意識は背後現れるかもしれない存在に向けている。


目はこっち、気持ちはあっち。
そんな感じ。

わかりにくいかな。
次の例えだとどうだろう。

子供が抱っこしてーと言った。
抱っこした。
そのとき、抱っこしていたが、夕ご飯の準備のことで頭がいっぱいだった。

子供は、自分に「意識」が向けられていないのがわかっている。



目の前の人が話をしているとき、その人は背後に意識を向けたり、僕でも相手でもない、斜めの何も空間に意識を向けていたりする。


疑問に思って、「何故そこに意識を向けているの?」と聞いても、ほとんどの人は質問の意味もわからない。

極まれに、話がわかる人がいて、
僕が、「今話しをしているときに、ここに意識を向けていますか?」と聞くと、

「ああ、そういえば、確かにそこに意識を向けています。」
と気がつく。

「何故ですか?」
と聞くと、

「今初めて気がつきました。」
と言われる。

こんなことを気にしている人は、そう多くない。



この、意識と感覚と目線のそれぞれの動きと意味に関して、

NLP(神経言語プログラミング)なんかを学んだ人は、少しわかりやすいかもしれない
僕は、基本的には、眼球の動きや、ジェスチャー(体の重心移動や、指先の動き、首の傾き、脚を組み替えるタイミング)からその人の真意を読み取ることをしている。

後ろに重心移動させながら、「そうですね。」というのは、視野を広く考えようとしていたり、受け入れられないものがあったりするとき。

目線は、右が未来、左が過去、上がビジョンで、下が自分の内面。
とそれぞれ意味があって、いろんな人で何度も確認したけど、この通りで概ね間違いないみたい。


目線、目の動きに関して、
心理療法でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理)という手法があるのだけれども、
これは、適応情報処理(AIP)というモデルに基づいている。

AIPというモデルでは、精神病理の多くが、トラウマ的な、もしくは苦痛でいやな人生経験が、不適応的にコーディングされた、もしくは、不完全に処理されたことによると仮定されている。
これにより、クライエントは経験を適応的に統合する能力に障害を受ける。

過去の傷により陥ってしまった適応統合障害の状態をリセットし、健常な情報処理、統合の再開を促させるアプローチがEMDRという手法。


2年ほど前までの僕は、患者さんのトラウマの治療に眼球運動とキネシオロジーテスト
(体の反応を筋肉の緊張から読み取る手法)を併せて応用した手法をよく使っていた。


人の記憶は、空間に配置されているという。
目の運動は記憶と深い関係にあって、特定の方向への眼球運動がトラウマを解消したり、併せて使う、色や音、ボディータッチや言語を使った刺激でさらにその効果を増すことが出来る。

それは、未来に対する恐怖や不安にも応用できる。


こんな治療をしていると、目の動きと意識が別々に動いていることや、体のパーツ(それぞれの内臓、骨格、他)ごとに関連する感情があること、体へのアプローチや食生活の変化でも感情は解消されたり、性格まで変わってしまうという現象にたびたび出会う。


これらの事も、無意識的な行動を見る上でとても大きな学びになった。

どこに意識を向けて、という話は、今説明したような目の動きやジェスチャーとはまた違う類いのもののように思う。
言うなら、目の前の人と人の関係とは別の、まだ本人さえ気づいていない思いのよう。

ほとんどの人が気がついてすらいない、目に見えない何かのやりとりが、無意識の思いを表現するひとつのツールのように感じている。


うれしい、喜び、怒り、とか、悲しみ。とか、恐怖や不安。
現象自体はシンプルだけど、そこには、感情の背景である過去の出来事や、無意識の中にある先祖代々続く家の考え方や、その人が学んできた考え方、信念なんかがともにある。

そして、無意識に意識するところにある何か。

感情よりも、もっと深い部分。
奥底に隠れているようにも感じるもの。

心と思っている物は、どこにあるのだろう。

それは、移動する物なのだろうか?

中心にある動かない物が真実の心なのだろうか?


この話は、僕の主観的な体験の話だから、一般の人にはわかりづらいと思う。
僕自身は、毎日のように起こっていることを観察して、この気づいている何かの感覚が意味しているものを理解しようとしている。

それこそ、コミュニケーションの中で、こうしたらどうだろうか、この場合はどうなるだろうか、と365日実験し、体験し続けている。

さあ、この移動する感覚はなんなのだろう。

それは、感情を動かす物で、人に不快感を与えたり、安心感を与えたりする。


治療の中で、体をみて、皮膚を見て、内臓を見て、目の動きを見て、検査をして、
言っている言葉や、言葉を発するのと同時に起こる体の動きを見て、

本当は、何を伝えたいのか、
言葉にしている悩みの裏に、何があるのか、を日々考える。


患者さん自身も気がついていない、もっとも叶えたいと思っている望みに繋がる「何か」に気がつき続けるために。


そして、自分自身の内側に抱えている、未だ気がついてすらいない夢のために。



不安や、不快は成長の種だ。
僕は、そう思うし、実際、確認のために不安や不快の中に自ら飛び込んで生きてきた。
わざわざ嫌な予感がする方へ進み、危険な方へ進んで生きた。

すると、嫌な予感、危険な感覚が実際は何なのかがわかってくる。
この感じは、こんな時に起こっている、この感じは、ここから始まっている。


自分の感情、感覚と関わり続ける経験が人を成長させると思っている。


この考え方に関しては、人それぞれ違うと思うから、僕は、患者さんが自らの意思で望む方をサポートすれば良いと思っている。


未知の感覚についたらいいか、もっと深いところにある思いはなんだろう。と、日々問い続けている。